ついにオープンしました。名前は、mAAch。
旧万世橋駅のホームの横を、ほらね中央快速が走っていきます。
まさに感無量!!
※2013年 9月19日 追記
それではコラムをお楽しみください。
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御茶ノ水や神田エリアに真新しい複合ビルがオープンしています。
「御茶ノ水ソラシティ」や「WATERRAS・ワテラス」。
それは大手町や丸の内の再開発とはひと味違った様相の新しいランドマークの誕生です。
その中の1つに、つい先頃オープンした「JR神田万世橋ビル」、敷地はJRの所有。
以前には機関車D51と新幹線0系の先端車両が
建物のアプローチに展示していた「交通博物館」があった場所。
その昔は「鉄道博物館」があった場所。いつから、なぜ名前が変わったのか。
それは、船舶や自動車、航空機も展示するようになり、
昭和21年に交通博物館と名前を変えましたが、
さいたま市大宮に移転してからは、再び鉄道オンリーの展示に戻ったので、
鉄道博物館の名前に先祖返りしました。
鉄道博物館と言えば、その昔は中央線の万世橋駅と併設されていました。
そぅ、実は万世橋には駅があったのです。今は無き、幻の駅舎。
東京メトロの新橋に眠る旧ホームや、京成線の博物館動物園前駅と並び、
中央線の万世橋駅は撮り鉄にとって、必ずや撮影したいポイントとして有名です。
*
中央線の前身「甲武鉄道」は、立川~新宿間を開通させ、さらに東へと線路を延ばしていきました。
御茶ノ水駅を開業し、目指すは万世橋駅へ。どうしても開業したかった駅舎です。
そぅ、実は万世橋には駅があったのです。今は無き、幻の駅舎。
東京メトロの新橋に眠る旧ホームや、京成線の博物館動物園前駅と並び、
中央線の万世橋駅は撮り鉄にとって、必ずや撮影したいポイントとして有名です。
*
中央線の前身「甲武鉄道」は、立川~新宿間を開通させ、さらに東へと線路を延ばしていきました。
御茶ノ水駅を開業し、目指すは万世橋駅へ。どうしても開業したかった駅舎です。
なぜそんなに万世橋にこだわったのでしょう。
もともと須田町界隈には青物商が集まり江戸時代から繁栄していました。
その後、明治以降には洋服生地を扱う問屋街が作られ、大店(おおだな)が軒を連ねました。
のちの大正創業のマルキシやストック商会など、
古参の鷹岡羅紗店の茶色いビルは、平成の今でも現存しています。
戦前は、既製服よりカスタムテーラー(注文紳士服)の粋な時代だったのですね。
今も営業を続ける、鷹岡羅紗店。
商売の基点の須田町に人が集まり、それを目当てに飲み屋街や寄席や百貨店ができ、
大勢の人々が行き来する一大歓楽街となっていきました。
まさに芋の子を洗う、この言葉がピッタリの喧噪だったそうです。
当然、交通の便も発達します。その役目を市電(のちの都電)が担っていました。
神田須田町は、都内を縦横無尽に走る市電の一大ターミナルだったのです。
須田町が終点という路線も多く、行き交う電車の他に、もともと須田町界隈には青物商が集まり江戸時代から繁栄していました。
その後、明治以降には洋服生地を扱う問屋街が作られ、大店(おおだな)が軒を連ねました。
のちの大正創業のマルキシやストック商会など、
古参の鷹岡羅紗店の茶色いビルは、平成の今でも現存しています。
戦前は、既製服よりカスタムテーラー(注文紳士服)の粋な時代だったのですね。
今も営業を続ける、鷹岡羅紗店。
商売の基点の須田町に人が集まり、それを目当てに飲み屋街や寄席や百貨店ができ、
大勢の人々が行き来する一大歓楽街となっていきました。
まさに芋の子を洗う、この言葉がピッタリの喧噪だったそうです。
当然、交通の便も発達します。その役目を市電(のちの都電)が担っていました。
神田須田町は、都内を縦横無尽に走る市電の一大ターミナルだったのです。
折り返し用のレールに車両が次々と連なる様子は圧巻だったといいます。
そんな街の真ん中に、中央線のターミナル駅として相応しい駅が欲しかったのです。
開業は、明治45年。設計したのは、あの辰野金吾です。最近よく耳にする名前ですね。
昨年復原された、東京駅丸の内駅舎の設計士でもあります。
実際に、万世橋駅の開業2年半後に、帝都東京の新しいターミナル駅としての
役割を果たす中央停車場 (現東京駅)を、彼は完成させます。
写真を見ると万世橋駅と東京駅、酷似しています。まさにミニ版ですね。
習作の意味合いが強く、トライアルとして万世橋駅を造ったのかと思ってしまいました。
当時の最新技術で造られた赤煉瓦アーチの高架線を背にして造られた駅舎は、豪華一色でした。
一等・二等の待合室、食堂やバー、会議室が備えられ、水洗式のトイレや、
貨物用のエレベーターもあったとか。
駅前の広場には日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があり、
威風堂々たる豪奢な駅舎は多くの旅客で賑わっていたそうです。
そんな街の真ん中に、中央線のターミナル駅として相応しい駅が欲しかったのです。
開業は、明治45年。設計したのは、あの辰野金吾です。最近よく耳にする名前ですね。
昨年復原された、東京駅丸の内駅舎の設計士でもあります。
実際に、万世橋駅の開業2年半後に、帝都東京の新しいターミナル駅としての
役割を果たす中央停車場 (現東京駅)を、彼は完成させます。
写真を見ると万世橋駅と東京駅、酷似しています。まさにミニ版ですね。
習作の意味合いが強く、トライアルとして万世橋駅を造ったのかと思ってしまいました。
当時の最新技術で造られた赤煉瓦アーチの高架線を背にして造られた駅舎は、豪華一色でした。
一等・二等の待合室、食堂やバー、会議室が備えられ、水洗式のトイレや、
貨物用のエレベーターもあったとか。
駅前の広場には日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があり、
威風堂々たる豪奢な駅舎は多くの旅客で賑わっていたそうです。
萬世橋停車場(初代万世橋駅)開業、明治45年。
(写真提供:JR東日本ステーションリテイリング)
しかし不運にも、新しいターミナル駅・東京駅の開業や関東大震災での駅舎焼失、
震災復興計画の区画整理で須田町交差点が移動、駅前近辺が裏通りとなり
震災後は一気に坂を転げ落ちるように寂れていったそうです。
2代目・3代目と駅舎を改築するほどに、写真のように質素な造りとなっていきました。
造り替えられた2代目駅舎前には、すでに市電のレールはありません。
関東大震災後に、2代目駅舎として復興。
(写真提供:JR東日本ステーションリテイリング)
3代目駅舎、東京〜神田間の鉄道博物館が移転し、万世橋駅舎と併設。
(写真提供:JR東日本ステーションリテイリング)
神田駅や秋葉原駅の開業とともに、人々の流れは新しく区画された「須田町交差点」へ。
その後、大正・昭和の時代と秋葉原が青物市場や電気街と専門的な商店街が連なり
界隈は、さらに繁栄するエリアとなっていきました。
特に須田町交差点は、昭和の30年代頃まで、銀座と並んで
まさに、東京の人と物と乗りもの(都電)の流れの中心地だったのです。
そして昭和18年、万世橋駅は駅の役目を終え休止、実質上廃駅となり、
駅舎は鉄道博物館の部分を除いて取り壊されました。
震災後は一気に坂を転げ落ちるように寂れていったそうです。
2代目・3代目と駅舎を改築するほどに、写真のように質素な造りとなっていきました。
造り替えられた2代目駅舎前には、すでに市電のレールはありません。
関東大震災後に、2代目駅舎として復興。
(写真提供:JR東日本ステーションリテイリング)
3代目駅舎、東京〜神田間の鉄道博物館が移転し、万世橋駅舎と併設。
(写真提供:JR東日本ステーションリテイリング)
神田駅や秋葉原駅の開業とともに、人々の流れは新しく区画された「須田町交差点」へ。
その後、大正・昭和の時代と秋葉原が青物市場や電気街と専門的な商店街が連なり
界隈は、さらに繁栄するエリアとなっていきました。
特に須田町交差点は、昭和の30年代頃まで、銀座と並んで
まさに、東京の人と物と乗りもの(都電)の流れの中心地だったのです。
そして昭和18年、万世橋駅は駅の役目を終え休止、実質上廃駅となり、
駅舎は鉄道博物館の部分を除いて取り壊されました。
*
話しの前口上は長くなりましたが、
かつての鉄道博物館があった場所に「JR神田万世橋ビル」ができ、
神田川沿いに残された旧万世橋駅の2階ホームや階段など、
赤煉瓦高架アーチの遺構を活かしながらの再開発が、夏までをめどにオープンの予定だそう。
「万世橋高架下開発」として、
赤煉瓦高架アーチ下には魅力的なショップを誘致。
万世橋駅サロンと称し、好奇心と趣味性にあふれた
カルチュラル(Cultural Area)エリアに変貌するそうです。
かつての鉄道博物館があった場所に「JR神田万世橋ビル」ができ、
神田川沿いに残された旧万世橋駅の2階ホームや階段など、
赤煉瓦高架アーチの遺構を活かしながらの再開発が、夏までをめどにオープンの予定だそう。
「万世橋高架下開発」として、
赤煉瓦高架アーチ下には魅力的なショップを誘致。
万世橋駅サロンと称し、好奇心と趣味性にあふれた
カルチュラル(Cultural Area)エリアに変貌するそうです。
また旧万世橋駅のホーム。今までは草ボウボウのプラットホームでしたが、
屋外デッキやスケルトンの展望カフェを整備するそうな。
珈琲を飲みながら寛いでいるすぐ目の前を、
中央線の現列車が滑走していくのを見られるだなんて、もう信じられません。
店内に鉄道模型のジオラマをしつらえた鉄カフェは、都内にもいくつかありますが、
これほどのリアルな鉄カフェは他にはないでしょう。最強です!!
旧万世橋駅2階プラットホーム、駅看は複製 (写真:JR東日本プレスリリース資料より)
写真は、明治30年頃創業の、鳥すき焼きのぼたん。現存の建物は、昭和初期のもの。
戦災を免れた神田の一画に、池波正太郎のような粋な文化人が
贔屓にしていた老舗の飲食店がまだまだ残っています。
最近ボヤを出したかんだやぶそばですが、
全面的に取り壊し、新規に店舗を再築しオープンすることになったそうです。
その他には、蕎麦の神田まつや、甘味の竹むら、洋食の松榮亭、
喫茶ショパン、洋菓子の近江屋、稲荷ずしの志乃多寿司、
鳥すき焼きのぼたん、あんこう鍋のいせ源があり
雰囲気もよく、往事を偲ぶのはピッタリです。
想像するだに、昔の須田町界隈も
風情あるこんな一軒家が並んでいたのでしょうか。
とある老舗のご主人が言っていたそうな。
『世の中の流れを見つめます。変わるものと変わらないものを見定めて、
変わるものの中で、変えてはいけないものを守るようにしています。
変えていいものは、勇気を出して変えて行かないと店が守れません』と。
雰囲気もよく、往事を偲ぶのはピッタリです。
想像するだに、昔の須田町界隈も
風情あるこんな一軒家が並んでいたのでしょうか。
とある老舗のご主人が言っていたそうな。
『世の中の流れを見つめます。変わるものと変わらないものを見定めて、
変わるものの中で、変えてはいけないものを守るようにしています。
変えていいものは、勇気を出して変えて行かないと店が守れません』と。
さてと、颯爽と闊歩しながら街歩きするのはいかが、
神田須田町・淡路町界隈。
神田須田町・淡路町界隈。
*
本コラムは、昨年の11月10日(土)に開催された「神田界隈 街探検」に
参加した模様を、旧万世橋駅舎の高架下開発の内容に特化して、
銀座コラム担当のウソムリエ本間がエキストラで書き起こしました。
参加した模様を、旧万世橋駅舎の高架下開発の内容に特化して、
銀座コラム担当のウソムリエ本間がエキストラで書き起こしました。