小さな酒場で、隣のテーブルのサラリーマンとマスターが「クンパルシータ」の話をしていた。

「クンパルシータ」は、京都木屋町にかつて存在していた老舗の喫茶店。
腰の曲がった愛らしい高齢の女店主が営む「タンゴ喫茶」だった。
京都らしいこの喫茶店に足を運びたいと思っていたものの、数年前に閉店してしまった。

サラリーマンと酒場のマスターは、ふたりともかつてクンパルシータの常連だったらしい。
ふたりは、クンパルシータの「名物女店主」の話をしていた。

コーヒーを出すのが遅い。30分でくれば早いほうで、最長5時間半待たされたことがある。
だから9時くらいにお店に入ると、終電を気にしなければならなくなる。
だけど、コーヒーを出す順番は絶対に間違えない。
コーヒーは美味しい。
アメリカンとブレンドの間に「イギリス」という独自の中間濃度のコーヒーがある。
お客がいないとき、女店主は体を前かがみにして蹲っている。客がくると、素早い動きで体を起こし、注文を取りにくる。
お客に手助けをされるのは断固として拒む。
機嫌が良いと50円くらいオマケしてくれたりする。

トンデモナイ女店主。
サラリーマンとマスターは、やれやれというふうな口調で語るが、目はきらきらと輝いていた。
トンデモナイけど、クンパルシータとその女店主は、永く人々に愛されてきたのだろう。

「君、クンパルシータを知っているの?」
気がつくと、サラリーマンが私に話しかけてきていた。
私は知らずのうちに、身を乗り出して聞き耳を立てていたのだった。
「いえ、行こうと思っていたら、閉店してしまいました。」と答える。

突然、マスターが言った。
「そうそう、うちにクンパルシータの椅子があるよ」

「ええっ!?」
サラリーマンが裏返った声を出して驚いた。
閉店してしまったクンパルシータから、マスターは椅子を譲り受けたのだという。
お店の入口付近にある2脚の椅子。サラリーマンがゆっくりと椅子に近づいていき、
背もたれの古い深紅のベルベッドを撫でる。懐かしい友に再会したかのような仕草で。

縁がなく訪れることの叶わなかったと思っていたクンパルシータ。
そのかけらが、目の前にあった。

私もその深紅に、少しだけ手を触れてみた。

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