
ご近所で見つけた【お稲荷さん】です。
ここはテレビで紹介されたこともあります。
東急多摩川線の蒲田から矢口渡へ行く途中の
線路っぷちにあります。
誰でもお参りできるようになっていますが、
一応、人ん家です。
♥・・・♥・・・♥
『倭国通史』というサイトがあります。
これをまとめると、こんな感じです。
まず、「倭国(わこく)」と呼ばれる国がありました。
場所は朝鮮半島の南の端っこと北九州。
「倭人は韓人とは別種」と書いてありますから、
昔から違う人種だったのだと思います。
倭国では160年〜180年ころ、大乱がおきます。
「卑弥呼」と呼ばれる女王を立てて
この大乱はなんとかおさまりました。
この卑弥呼は、たぶん、スサノオの奥さんになった
卑弥呼ではありません。
と書いたような気がしますが、
奥さんになった人だったかもしれません。
この国がまだ朝鮮半島にいたころ、
飢饉があり、難民が半島の南へ、九州へと押し寄せました。
173年には卑弥呼が新羅に使者を送っています。
「助けて〜」と悲鳴をあげたのだと思います。
少なくても239年までには朝鮮半島の倭国は、
九州へ移ってきたのではないかと
『倭国通史』では言ってます。
この「倭国」は「邪馬台国」ではありません。
では、「邪馬台国」はどこにあったのでしょうか。
これはあくまでも仮定の話ですが、
大和(やまと=奈良)にあったんじゃないかと。
ちなみに「邪馬台国」は「やまたいこく」と読みますよね。
でも、もしかしたら、「やまと こく」と読んだかもしれません。
しかも、九州にあった『卑弥呼の倭国』と
大和にあったかもしれない
『邪馬台国のちの大和朝廷』ですね。
このふたつが並立していたというのです。
♥・・・♥
なんのために二つに分かれていたのでしょうか。
『倭国』は外交戦略・対外遠征・年号・行政・冠位等々の政事を担当していました。
『大和』は宗教・司祭などの祭事を担当したと考えられます。
このような二重構造は、どちらが上というものではありません。
競合関係ではなく、補完関係だったのです。
けれど、「倭国が列島の代表だ」と自認していました。
国際的にもこれは認められていました。
♥・・・♥
いつまで、こんな二重構造がつづいたのでしょうか。
それは7世紀の終わりまで。
持統天皇のころまでです。
白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)に破れ、
701年ごろまでに
九州倭国は滅亡しました。
つまり宗主国が無くなっちゃったのです。
あとは大和朝廷が踏ん張るしかありません。
そこで、天武天皇の出番でございます。
天武天皇は、『古事記』と『日本書紀』をつくるにあたって、
九州倭国の記録を抹殺しました。
『古事記』の前書きにいろいろ書いてありました。
あれ、記録が残っていると困ることがあったんでしょうね。
といっても、消されたのは九州倭国の記録です。
半島倭国のものではありません。
天武天皇は『卑弥呼』に目をつけました。
そうだ!
あのかたを「天照大神(あまてらす おおみかみ)」に
仕立てあげよう。
みなさんは天照大神の正体をご存知ですか。
大和の大王の言われた「にぎはやひ」なのです。
スサノオの五男です。
ニギハヤヒのフルネームは
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
(あまてる くにてる ひこ あめ の ほあかり くしたま
にぎはやひ の みこと)
天照大神のフルネームもこれと似ています。
ていうか、そっくりです。
こうして「饒速日」は「卑弥呼」に置き換えられました。
大和朝廷はこのころから、自分のことを「日本」と呼んでいます。
日本のトップは「天皇」です。
白村江で負けた百済の貴族をたくさん受け入れたので、
官位も急激に増やしました。
こうして国の体制を整え、カッコをつけて、
新生日本の夜明けが始まったのです。
♥・・・♥・・・♥

こんなところにも。
ホント、どこにでもありますねぇ。

ここは多摩川図書館の近くで見つけました。
こっそり盗み撮りしました。
次は小椋 一葉さんです。
(つづく)