スサノオの話でしたね。
なんというかこのグログの主旨から
大幅にずれている気がします。が、
自分達の過去がはっきりすかもしれないと思って
おついきあいくださいませ。
♥・・・♥
その前にちょっとしておかなければならないお話が。
これは『倭国通史』というサイトで見つけたんですが、
なんというかこのグログの主旨から
大幅にずれている気がします。が、
自分達の過去がはっきりすかもしれないと思って
おついきあいくださいませ。
♥・・・♥
その前にちょっとしておかなければならないお話が。
これは『倭国通史』というサイトで見つけたんですが、
【九州王朝】と【大和朝廷】が並立していたんじゃないか。
というんです。
●「倭国(わこく)=九州王朝」
九州の倭国では、
外交戦略・対外遠征・年号・行政・冠位などの
政事を担当していました。
●「倭国=大和朝廷」
奈良の「大和(やまと)」では、宗教や司祭などの
祭事を担当していたと考えられます。
いつまでかというと、
壬申の乱(672年)までです。
7世紀まで?
そう、天武天皇のころまでです。
あっ、こんなことは小椋一葉さんの本には
書いてありませんよ。
『消された覇王』にも『女王アマテラス』にも。
♥・・・♥
スサノオは出雲(島根県)の出身です。
新羅の王族だったようです。
生まれたのは120年ころ。
日本はまだ「倭国」と呼ばれていて、
朝鮮半島・南部と北九州に分かれていました。
朝鮮にも倭人がいたんですね。
そのころの国際情勢はかなり緊迫していました。
160年〜180年には倭国大乱がおきます。
このころ半島では飢饉がつづき、
半島の倭国にも難民が押し寄せました。
173年には卑弥呼が新羅に使者を送っています。
SOSだと思います。
この卑弥呼は、たぶん、スサノオの奥さんになった
卑弥呼ではありません。
これに追い打ちをかけたのが
184年におきた「黄巾(こうきん)の乱」です。
中国の後漢末期に起きた農民の反乱です。
反乱軍が黄色い頭巾を頭に巻いていたので、
黄巾の乱、と呼びます。
宦官の先制政治、重税、旱魃(かんばつ)、疫病、凶作などが
重なって民衆は苦しみのどん底。
そんなとき「起ちあがれ!」と言った人がいたもんですから
みんなそれについていっちゃったんですね。
この乱によって後漢の統治能力ってどーなのよ、
と思われてしまい、
三国(魏・呉・蜀)時代に移る契機となりました。
そんなこんなで、朝鮮半島の倭国は239年の時点では
無かったことになります。
♥・・・♥
『魏志倭人伝』には
『魏略(270年ごろ編纂)』という元本があるそうです。
「魏略」は散逸して完全本は写本も残っていないそうです。
けれど、この本を詳しく調べた人がいます。
それによると、『魏志倭人伝』に書かれている
「卑弥呼の女王国」と「女王の都する邪馬台国」
とは違う国だというんですね。
「卑弥呼の女王国」これは朝鮮半島の倭国。
「女王の都する邪馬台国」これは九州の倭国です。
なんだって?
ということは、邪馬台国がふたつあったってこと?
違うか。
半島の倭国と九州の女王は別の名前で
呼ばれていた可能性が高いということですね。
『魏志倭人伝』ではこの辺りが
ごちゃごちゃになっていて、
わたしたちはすっかりだまされちゃったわけです。
つづく
●「倭国(わこく)=九州王朝」
九州の倭国では、
外交戦略・対外遠征・年号・行政・冠位などの
政事を担当していました。
●「倭国=大和朝廷」
奈良の「大和(やまと)」では、宗教や司祭などの
祭事を担当していたと考えられます。
いつまでかというと、
壬申の乱(672年)までです。
7世紀まで?
そう、天武天皇のころまでです。
あっ、こんなことは小椋一葉さんの本には
書いてありませんよ。
『消された覇王』にも『女王アマテラス』にも。
♥・・・♥
スサノオは出雲(島根県)の出身です。
新羅の王族だったようです。
生まれたのは120年ころ。
日本はまだ「倭国」と呼ばれていて、
朝鮮半島・南部と北九州に分かれていました。
朝鮮にも倭人がいたんですね。
そのころの国際情勢はかなり緊迫していました。
160年〜180年には倭国大乱がおきます。
このころ半島では飢饉がつづき、
半島の倭国にも難民が押し寄せました。
173年には卑弥呼が新羅に使者を送っています。
SOSだと思います。
この卑弥呼は、たぶん、スサノオの奥さんになった
卑弥呼ではありません。
これに追い打ちをかけたのが
184年におきた「黄巾(こうきん)の乱」です。
中国の後漢末期に起きた農民の反乱です。
反乱軍が黄色い頭巾を頭に巻いていたので、
黄巾の乱、と呼びます。
宦官の先制政治、重税、旱魃(かんばつ)、疫病、凶作などが
重なって民衆は苦しみのどん底。
そんなとき「起ちあがれ!」と言った人がいたもんですから
みんなそれについていっちゃったんですね。
この乱によって後漢の統治能力ってどーなのよ、
と思われてしまい、
三国(魏・呉・蜀)時代に移る契機となりました。
そんなこんなで、朝鮮半島の倭国は239年の時点では
無かったことになります。
♥・・・♥
『魏志倭人伝』には
『魏略(270年ごろ編纂)』という元本があるそうです。
「魏略」は散逸して完全本は写本も残っていないそうです。
けれど、この本を詳しく調べた人がいます。
それによると、『魏志倭人伝』に書かれている
「卑弥呼の女王国」と「女王の都する邪馬台国」
とは違う国だというんですね。
「卑弥呼の女王国」これは朝鮮半島の倭国。
「女王の都する邪馬台国」これは九州の倭国です。
なんだって?
ということは、邪馬台国がふたつあったってこと?
違うか。
半島の倭国と九州の女王は別の名前で
呼ばれていた可能性が高いということですね。
『魏志倭人伝』ではこの辺りが
ごちゃごちゃになっていて、
わたしたちはすっかりだまされちゃったわけです。
つづく