小学生の時、サンフランシスコ帰りの同級生がいた。修学旅行の作文に「広島の町は坂が多く、シスコに似ていました」と書いていた。彼は坂を見つければサンフランシスコに見えちゃうんだろうなと思った。


心の風景を呼び覚ます装置は、そこここにある。宮澤賢治は北上川河畔をイギリス海岸と呼んだし、東京の町で言えば、神楽坂は小さな階段や坂の感じがパリに似ているらしい。(ホントか~?という言葉は禁句です) 


 


本郷菊富士ホテルに半年も逗留したロシア人の東洋学者ニコライ・ネフスキーが、1917年の日記に「駿河台のニコライ堂のミサに出かけた。着いたときにはほとんど終わっていて、信者たちが十字架に接吻しているところであった」(『天の蛇』より)と書いている。


 


東京の中のロシアを感じたい時には、なんと言っても御茶ノ水のニコライ堂だ。鈴木八郎という写真家が1950年に撮った写真がある。「雪のニコライ堂」という題のその写真は、高い建物もなく、道にびっしり、ドームにうっすら雪が積もっている。その光景は、まさに冬のロシア。(※『名作写真と歩く、昭和の東京』にその写真があります) 


 


ネフスキーも遠い故郷をこの風景に見ただろう。日記を書いた1917年は、ロシア革命の起こった年だ。この年彼は、予定していた留学期間を終え、ロシアに帰るはずだった。だが、体調不良と母国の混乱のために、帰国の延期を決めたのだ。 


それが彼にとって良かったのかどうか、なんとも言えない。日本に残ったことによって、彼は宮古島や東北の民俗伝承研究の世界に名を残した。民俗学というと必ず名前が出てくる二人の学者、折口信夫に柳田国男も、ネフスキーを高く評価した。そして日本に残ったことによって、彼は伴侶を得た。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)勤務時代に知り合った日本人女性と結婚したのだ。 


後にソ連となった故国に帰り、研究生活を続けるも、スパイ容疑をかけられて妻と共に処刑される。革命後の混乱時に国にいなかったことや日本人女性と結婚したことで嫌疑をかけられたのだという。 (※後に嫌疑は間違いだったと名誉回復された)


もっと早くに帰っていれば、粛清されずに済んだのかどうか、運命の分かれ道がどうなっているのかは誰にもわからない。


そんなことを考えながらニコライ堂を眺めるのは悲しいけれど、いろんな人のいろんな歴史に想いを馳せながらの東京散歩もたまにはいい。


 





 


天の蛇?ニコライ・ネフスキーの生涯 (1976年)



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名作写真と歩く、昭和の東京   名作写真と歩く、昭和の東京