少し気力が復活して来ました。
ちょっと、がんばってみます。

蒲田東口にはモヤイ像があります。



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あれ、なんでだろうと
前から不思議に思っていました。

そうしたら、ちゃんと看板が立ってました。

あのモヤイ像は
【新島】から贈られたものだったんです。

新島ではみんなで力を合わせて作業することを
モヤイ」と言います。

新島には流人(るにん=島流しになった人・政治犯が中心でした)が
けっこういたようです。
島の人達はそういう人にも
あたたかく接したそうです。

流人も含めて、
みんなで力を合わせることが

モヤイ」だったのでしょう。

※ ※ ※

蒲田東口商店街と新島本村の友好の絆を記念し、
モヤイこころ「コーガ石(抗火石こうがせき)」に刻む。
と看板には書いてありました。

抗火石は軽石の一種です
新島とイタリアのシシリー島でしか採れません。

スポンジ状の構造を持つガラス質であり、
のこぎりや斧でかんたんに切れます。

彫刻家は大後友市さん。
日付は昭和59年6月24日。

けれど、このモヤイ像には
わりとかわいそうな歴史があります。

もともとは1978(昭和53)に住友ビル前に置かれていました。
ところが、1983(昭和58)に照明灯をつけるために
取り外され、東京港の倉庫へ。
翌年、新たな引き取り先を探していたとき、
手を挙げたのが、蒲田東口商店街でした。

※ ※ ※

モヤイ像は渋谷にもあります。
ハチ公ほど有名ではありませんが、
たしか南口にあったはず。

こちらも、新島から贈られたものでした。
新島が東京都になってから100年たったことを記念して
1980(昭和55)年に渋谷区に贈られたものです。

昭和55年か・・・
ち、負けちゃったわ。

2009年12月7日。
渋谷のモヤイ像がルパンに盗まれるという大事件が発生しました。

12月21日は返って来たそうですが。
そのときは色白になっていたとか
(石の色が白くなっていた)。


これが話題になったのも
渋谷だからですよね。

けれども、蒲田だって負けちゃいません。

※ ※ ※

東京港の倉庫に押しこめられたとき
モヤイ像は2体ありました。
すでに1体は引き取り先が決まっていました。
茨城県石岡市柏原池(かしわばらいけ)公園です。

ここ、桜の名所みたいですよ。

そこで大後さんがもう1体制作。

それが蒲田にやって来たのです。
蒲田に来たのも、じつは2体ありました。
じゃあ、そのもう1体はどこへ行ったんでしょうか。

長いこと区役所の資材置場でほこりをかぶっていたのです。
駅前広場のリニューアルのとき、
「上昇気流」というオブジェに押し出される形で、
またまた資材置場へ放り込まれることに。


問題の「上昇気流ってどんなものかっていうと・・・

0520_lunch_josho.jpgはっきり言ってこんなもののために置き場所を奪われるなんて

(わたしはあまり東口には行かなかったもんですから
リニューアルの記憶はありません。
でも、うっすらモヤイ像がここにもあったような気がします


それがやっと日の目を見たのが1998(昭和73)年です。
あるテレビ番組で、モヤイ像のもらい手を募集しました。
こんな大きなもの、だれが欲しがるんだろうと思っていたら
全国からなんと3000通もの応募がありました。
そして青森県へ行き先が決まったのです。

ウェスパ椿山(つばきやま)です。

ここにはレストランもありますが、
コテージがメインで、自炊も可能なようです。

モヤイ像には表の顔と裏の顔があるって知ってました?
東口広場のほうから見た顔が男性(上)の顔。
反対側から見た顔が女性(下)の顔です。

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このモヤイ像、
イースター島の「モアイをもじって作られたというのは
まったくのでたらめ

モアイモヤイは全くの別物です
(もじったのかもしれないと、
ちょっとは思いますけれど


新島にはモヤイの丘」というのがあって、
モヤイ像がたくさん立っているそうです。

ちなみにモアイ」は未来に生きるという意味。
モヤイ」は「共に生きる」という新島の言葉です。

みんなが共に生きられる世の中になればいいのにね。