突然ですが更新します。
大田区は平和都市宣言をしています。
たぶんそのせいで、
毎年8月15日になると
花火大会が開かれます。
大田区は平和都市宣言をしています。
たぶんそのせいで、
毎年8月15日になると
花火大会が開かれます。

あれは送り火なんじゃないかと思います。
京都の大文字の送り火と同じです。
お盆ですから、戦争で亡くなったかたたちの霊を
盛大に送ってさしあげるんだと思います。
【放光地蔵】のところでも書きましたが、
わたしたちは平和の時代に生きていることを
もっと大切に思わないといけないんじゃないでしょうか。
と、言ってもそれがどういうことなのか、
正直
わたしにも分からないのです。
戦争を知らない世代なものですから。
空襲も知りません。
それで、花火大会のとき父に聞いてみました。
父は昭和5年の生まれなので
真珠湾攻撃の年にもまだ11歳。
放光地蔵の脇に書かれている
昭和20年4月15日の空襲のときには
矢口には住んでいなかったそうです。
けれども、久が原(これも大田区です)に
住んでいてB29から降ってくる焼夷弾で
隣の家まで焼けたそうです。
家が焼けるときの熱はものすごく、
5m以内には近づけなかったと言います。
2軒先の家ではお釜が半分溶けていたそうです。
次の朝、食べようと思ったんでしょうね。
といであったごはんが
炊けていたとか。
防火用水という
棺桶みたいな石の容器に
水を溜めておくものがありました。
火事のときの用心です。
そこに赤ちゃんをおんぶしたお母さんと
3~4才の男の子が黒焦げになって死んでいたそうです。
それが初めて人間の死体を見た経験だったと。
また、川崎にあった高射砲から撃った閃光弾(光る弾)が
B29に命中。
右エンジンが燃え、上空を飛んで久が原に墜落しました。
炎が50mも吹き上がりました。
機体が空中分解して、ゆっくりと尾翼だけが落ちて行きました。
溝にはまって死んだ搭乗員は半ズボンをはいていたそうです。
パラシュートが開かず、
頭から田んぼに突っ込んだアメリカ兵は女性だったそうです。
こんなラフなかっこで飛んで来たのか。
こりゃ、日本もダメだな、
とそのとき思ったそうです。
六郷(多摩川)の花火大会
東部軍管区情報「関東地区空襲警報発令」
というラジオ放送が毎晩流れたそうです。
夜空を切り裂くサイレンとともに。
当時は自分も大きくなったら兵隊さんになるんだと思っていたそうです。
終戦が近づくと毎晩空襲があったそうですが、
少しも眠くなったそうです。
寝不足も疲れも感じなかったのは思想教育に精神力だろうか
と言ってました。
自分の住んでいる地域が爆撃されないときは
平気で空を見上げていたそうです。
B29が火だるまになって撃墜されるを10数機見たと言っていました。
それから勤労動員といって、
中学3年から三菱重工業下丸子工場へ
戦車を作りに行っていたそうです。
ここは全く爆撃されなかったようです。
もしかすると、戦争が終わったら、
アメリカが接収して戦車かなにかを
作らせるつもりだったのかも。
と推理していました。
わたしが大好きな桜の名所、
六郷用水路。
あそこは父の通学路だったそうです。
いまは埋め立てられて88mしか残っていませんが、
野菜の洗い場があり、
「えびがに」がたくさんいたらしいです。
多摩川も泳げるほどきれいだったとか。
※ ※ ※
それにしても、
どうして「お国のために死ね」なんていう
教育をされたんでしょうか。
「捕虜になるくらいなら死んだほうがまし」
などと言われていたために
実際に捕虜になってしまったら、
どうしたらいい分からなくなって
あることないことしゃべってしまう。
というパターンがけっこう多かったみたいです。
捕虜になったら
どうするかという教育も、
もっとちゃんとしておいたほうがよかったんじゃ・・・
ま、それはそれとして
いつまでも子供達が花火を見て「た~まや」なんて
言っていられる時代がずっと続くといいですね。
今年の花火はけっこう面白かったです。
来年も平和でありますように。

京都の大文字の送り火と同じです。
お盆ですから、戦争で亡くなったかたたちの霊を
盛大に送ってさしあげるんだと思います。
【放光地蔵】のところでも書きましたが、
わたしたちは平和の時代に生きていることを
もっと大切に思わないといけないんじゃないでしょうか。
と、言ってもそれがどういうことなのか、
正直
わたしにも分からないのです。
戦争を知らない世代なものですから。
空襲も知りません。
それで、花火大会のとき父に聞いてみました。
父は昭和5年の生まれなので
真珠湾攻撃の年にもまだ11歳。
放光地蔵の脇に書かれている
昭和20年4月15日の空襲のときには
矢口には住んでいなかったそうです。
けれども、久が原(これも大田区です)に
住んでいてB29から降ってくる焼夷弾で
隣の家まで焼けたそうです。
家が焼けるときの熱はものすごく、
5m以内には近づけなかったと言います。
2軒先の家ではお釜が半分溶けていたそうです。
次の朝、食べようと思ったんでしょうね。
といであったごはんが
炊けていたとか。
防火用水という
棺桶みたいな石の容器に
水を溜めておくものがありました。
火事のときの用心です。
そこに赤ちゃんをおんぶしたお母さんと
3~4才の男の子が黒焦げになって死んでいたそうです。
それが初めて人間の死体を見た経験だったと。
また、川崎にあった高射砲から撃った閃光弾(光る弾)が
B29に命中。
右エンジンが燃え、上空を飛んで久が原に墜落しました。
炎が50mも吹き上がりました。
機体が空中分解して、ゆっくりと尾翼だけが落ちて行きました。
溝にはまって死んだ搭乗員は半ズボンをはいていたそうです。
パラシュートが開かず、
頭から田んぼに突っ込んだアメリカ兵は女性だったそうです。
こんなラフなかっこで飛んで来たのか。
こりゃ、日本もダメだな、
とそのとき思ったそうです。

東部軍管区情報「関東地区空襲警報発令」
というラジオ放送が毎晩流れたそうです。
夜空を切り裂くサイレンとともに。
当時は自分も大きくなったら兵隊さんになるんだと思っていたそうです。
終戦が近づくと毎晩空襲があったそうですが、
少しも眠くなったそうです。
寝不足も疲れも感じなかったのは思想教育に精神力だろうか
と言ってました。
自分の住んでいる地域が爆撃されないときは
平気で空を見上げていたそうです。
B29が火だるまになって撃墜されるを10数機見たと言っていました。
それから勤労動員といって、
中学3年から三菱重工業下丸子工場へ
戦車を作りに行っていたそうです。
ここは全く爆撃されなかったようです。
もしかすると、戦争が終わったら、
アメリカが接収して戦車かなにかを
作らせるつもりだったのかも。
と推理していました。
わたしが大好きな桜の名所、
六郷用水路。
あそこは父の通学路だったそうです。
いまは埋め立てられて88mしか残っていませんが、
野菜の洗い場があり、
「えびがに」がたくさんいたらしいです。
多摩川も泳げるほどきれいだったとか。
※ ※ ※
それにしても、
どうして「お国のために死ね」なんていう
教育をされたんでしょうか。
「捕虜になるくらいなら死んだほうがまし」
などと言われていたために
実際に捕虜になってしまったら、
どうしたらいい分からなくなって
あることないことしゃべってしまう。
というパターンがけっこう多かったみたいです。
捕虜になったら
どうするかという教育も、
もっとちゃんとしておいたほうがよかったんじゃ・・・
ま、それはそれとして
いつまでも子供達が花火を見て「た~まや」なんて
言っていられる時代がずっと続くといいですね。
今年の花火はけっこう面白かったです。
来年も平和でありますように。
