みなさま、あけましておめでとうございます。
今日は蒲田から武蔵新田かけの歴史についてお話したいと思います。
蒲田の西口には「多摩堤通り(たま
づづみ どおり)」が走っています。
この多摩堤通りを蓮沼(はすぬま)方面に向かって歩いて行くと右に曲がる道があります。
「大
城(おおしろ)通り商店街」です。
ここを少し入っていくと「女塚神社」があります。
女塚「おんなづか」と書
いて「おなづか」と読みます。
この神社は少将局(しょうしょう の
つぼね)を祀っています。
誰、それ。
と思った人、無理もありません。
この人は新田義興(にった
よしおき)を色じかけで落とすために京都から呼び寄せられた女性です。
新田義興っ
て誰。
と思った人、それは新田義貞(にった よしさだ)の二番目の息子です。
新
田義貞は鎌倉末期から南北朝にかけて活躍した武将です。
源義家(みなもと の よしいえ)を祖先に持ちます。
義家は京都の石清水八幡(い
わしみず はちまん)で元服したために八幡太郎を自称しました。
八幡太郎義家は、
1083年に「後三年の役」という戦いを起こします。
けれど、朝廷がこれは私戦だろうとして認めてくれませんでした。
そこで仕方なく私財
を投げ打って部下たちに恩賞を与えました。
これが東国武士の主従の結束を固めることになったのです。
後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと の よりとも)も八幡太郎の子孫だと名乗っていました。
「後三年の役」がな
かったら、関東の武士たちが我も我もと頼朝に付き従ったかどうかは分かりません。
武
士は天皇や公家のガードマンでした。
そのガードマンが実権を握ったのですから、天皇たちはおもしろくありません。
そこで実権を奪い返そう
とします。
執権(しっけん)というのは、将軍の補佐役のことです。
源頼朝→頼家(よりいえ)→実朝(さねとも)3代で源氏の将軍
が途絶えた後は、実質、執権が鎌倉幕府を動かしていました。
1316年、14代執権に北条高時(ほうじょう たかとき)が就任。
1318
年、後醍醐天皇(ごだいご てんのう)即位。
後醍醐天皇は2度幕府打倒を企
てますが失敗し、隠岐(おき@島根県)に流されてしまいます。
けれども、2度目の挙兵のとき、楠木正成(くすのき まさしげ)と出会います。
楠木正成は「悪党」と呼ばれる武士集団・・・いってみれば、体制に楯をつく人た
ち、とでも言うんでしょうか。そんな者たちの一員でした。
一年後、天皇は隠岐から脱出します。そこへまたまた天皇に強い味方が。
鎌
倉幕府から京都へ派遣された足利高氏(あしかが たかうじ@高氏は後醍醐天皇から名前を賜って尊氏に改めます)です。
鎌倉幕府から?
そ
れじゃあ、天皇をやっつける側じゃないの、と思うのでしょう。
ところが、尊氏(以後、こう書きます)は天皇をやっつけろという幕府の指図にうんざりしてたんで、あっさり裏切ってしまうんです。
しかも、尊氏はあの八幡太郎義家の直系です。
源氏は天皇の子供に姓を賜って家臣にしたもの。
一方、平氏は天皇の孫に姓を賜って家臣にしたもの。
従って、源氏のほうが格上と見られていました。
第一代執権の北条時政(ほうじょう ときまさ)は桓武平氏の出です。
北条氏がこれだけ実権を握っても、将軍になれず執権なのは、北条氏が平家の血筋だからなんですね。
そしてもう一人。
新田義貞の登場です。
新田氏も源氏の流れを汲む名門です。
足利尊氏と同じ八幡太郎義家の家柄ですが、足利氏と違ってかなり冷遇されていました。
でも、ここ
ではもちろん後醍醐天皇に味方します。
こうして後醍醐天皇・足利尊氏、
楠木正成・新田義貞らの力が結集して鎌倉幕府は滅亡に追いやられました。
執権・北条高時は東照寺で自刃します。
1333年(元弘三年)5月22日のことでした。
鎌倉幕府を倒すまで後醍醐天皇と足利尊氏は仲良しでした。
2年後には敵対することになります。
足利尊氏の「北朝」、後醍醐天皇の「南朝」。
一つの国に二人の天皇という南北朝時代に突入す
るのです。
後醍醐天皇は吉野(奈良県南部)に逃れて南朝を開きました。
1336年から1392年、両朝がひとつになるまで南北朝が続くこ
とになります。
さて、新田義貞の息子・義興ですが。
この人は多摩川線で蒲田から2つ目「武蔵新田(むさし にった)駅」からほど近い「新田神社」に祀られています。
新田神社の境内
義貞の長男は早くに亡くなっています。
ほんとうなら次男の義興が家督を継ぐのがふつうですが、そうはなりませんでした。
なぜか。
それは義興が愛人の子だったからです。
けっきょく、三男の義宗が新田家を継ぎました。
でも、後醍醐天皇は義興に目をかけていたようです。
この子は「新田の家を興す子だよ」とおっしゃって、「義興」という名前を与えました。
義興の時代、鎌倉は完全に足利勢に占領されていました。
「鎌倉公方(かまくら
くぼう)」には足利基氏(あしかが もとうじ@足利尊氏の次男)がいました。
それを補佐する執権職には、畠山国清(はたけやま くにきよ)がいました。
鎌倉公方というのは、室町幕府(京都にありました)から関東を治めるために派遣された長官のことです。
国清は、義興のことを必死で探していました。
そんなとき、義興のもとへ「関東へ来て大将になってくれ」という手紙が届きます。
それを聞きつけた国清、そうだ。あいつを使おう。と思い立ちます。
「あいつ」とは誰か。
竹沢右京亮(たけざわ うきょうのすけ)です。
女塚神社の「女塚伝説へ」をクリックすると、主な登場人物のところに「竹沢右京亮」が出て来ます。
なぜか「左京亮」となっていますが。
この人物は少将局を探してきて、新田義興に引き合わせた人です。
もと義興の部下だったので信頼されると思ったのでしょう。
けれども義興は全く相手にしませんでした。
そこで、京都のある宮の御所から身分の高い女房をもらい受けました。
年は16ばかり、このうえもなくきれいで、心やさしい女性だったと言います。
これが少将局です。自分の養女にして義興に差し出しました。
ほんとうは義興をだますつもりで連れて来た少将局ですが、どうも本気で義興のことを好きになってしまったようです。
半年くらいたって、右京亮が義興を殺す計画を立てます。
満月の夜、「名月の宴」を開くので、ぜひご参加を、というのです。
そして刺客を配置して待っていました。
ところが、少将局はこの計画を知ってしまいます。
さっそく文を書いて、名月の宴には行かないように義興に知らせました。
けっきょく、義興は宴には行かず、計画は失敗に終わります。
けれども、右京亮は少将局から計画がもれたことを知ります。
「あの女を生かしちゃおけない」と門のところへ呼び出し、斬り殺してしまいました。
それを祀ったのが「女塚神社」だと言われています。
義興は右京亮をすっかり信頼しています。
足利から奪うために鎌倉へ行こうという右京亮の誘いに乗ってしまいます。
人数はできるだけ抑えて、と言われていたので、お供を十人くらい連れただけで、多摩川の「矢口の渡し(やぐち の わたし )」から船に乗り込みます。
船の底に穴が開いているとも知らずに。
渡しというのは、川のこちら側からあちら側に人や荷物を運ぶことです。
義興が船に乗り込んだとき、
船頭が二人、船底に空いた穴に詰めておいた栓を同時に抜き、水底をくぐって逃げました。
両岸から、矢筒(やづづ@弓矢を入れる筒)をたたいて、義興一行をあざけり笑う声。
義興は「日本一の無法者にだまされることこそ無念。悪鬼になってお前らを怨んでやる!」と。大いに怒り腰の刀を抜いて、左の脇から右のあばらぼねまで、かき回しかき回し、2回切りました。
また、執事
の井弾正(いいの
だんしょう)は腸を引き切って河中へ投げ入れ、自分の喉ぶえを二ヶ所さし切って自ら髪のつか(ひとつに結んである所)をつかみ首をうしろへ折りました。そ
の音は二町(約200m)ほども聞こえたと言います。
そのほか一緒にいた部下たちも壮絶な最期を遂げました。
「矢口渡」
というのは、今は蒲田のとなりの駅名になっています。
ここは新田義興がだまされて亡くなった場所だったんですね。
首謀者はもちろん右京亮です。
一緒に義興をだました江戸遠江守(えど とおとうみ の かみ)も義興の怨霊に脅かされて亡くなりました。
畠山国清も義興が6mもある鬼になって現れる夢を見たあと、流浪して死にました。
矢口の渡しには夜な夜なひかり物が出て道ゆく人を悩ましました。
そこで、義興の亡霊を一社の神に祭り、お墓をきづき、竹を植え、新田大明神と名付けました。
これが今の「新田神社」です。
今日は蒲田から武蔵新田かけの歴史についてお話したいと思います。
蒲田の西口には「多摩堤通り(たま
づづみ どおり)」が走っています。
この多摩堤通りを蓮沼(はすぬま)方面に向かって歩いて行くと右に曲がる道があります。
「大
城(おおしろ)通り商店街」です。
ここを少し入っていくと「女塚神社」があります。
女塚「おんなづか」と書
いて「おなづか」と読みます。
女塚神社
この神社は少将局(しょうしょう の
つぼね)を祀っています。
誰、それ。
と思った人、無理もありません。
この人は新田義興(にった
よしおき)を色じかけで落とすために京都から呼び寄せられた女性です。
新田義興っ
て誰。
と思った人、それは新田義貞(にった よしさだ)の二番目の息子です。
新
田義貞は鎌倉末期から南北朝にかけて活躍した武将です。
源義家(みなもと の よしいえ)を祖先に持ちます。
義家は京都の石清水八幡(い
わしみず はちまん)で元服したために八幡太郎を自称しました。
八幡太郎義家は、
1083年に「後三年の役」という戦いを起こします。
けれど、朝廷がこれは私戦だろうとして認めてくれませんでした。
そこで仕方なく私財
を投げ打って部下たちに恩賞を与えました。
これが東国武士の主従の結束を固めることになったのです。
後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと の よりとも)も八幡太郎の子孫だと名乗っていました。
「後三年の役」がな
かったら、関東の武士たちが我も我もと頼朝に付き従ったかどうかは分かりません。
※ ※ ※
武
士は天皇や公家のガードマンでした。
そのガードマンが実権を握ったのですから、天皇たちはおもしろくありません。
そこで実権を奪い返そう
とします。
執権(しっけん)というのは、将軍の補佐役のことです。
源頼朝→頼家(よりいえ)→実朝(さねとも)3代で源氏の将軍
が途絶えた後は、実質、執権が鎌倉幕府を動かしていました。
1316年、14代執権に北条高時(ほうじょう たかとき)が就任。
1318
年、後醍醐天皇(ごだいご てんのう)即位。
後醍醐天皇は2度幕府打倒を企
てますが失敗し、隠岐(おき@島根県)に流されてしまいます。
けれども、2度目の挙兵のとき、楠木正成(くすのき まさしげ)と出会います。
楠木正成は「悪党」と呼ばれる武士集団・・・いってみれば、体制に楯をつく人た
ち、とでも言うんでしょうか。そんな者たちの一員でした。
一年後、天皇は隠岐から脱出します。そこへまたまた天皇に強い味方が。
鎌
倉幕府から京都へ派遣された足利高氏(あしかが たかうじ@高氏は後醍醐天皇から名前を賜って尊氏に改めます)です。
鎌倉幕府から?
そ
れじゃあ、天皇をやっつける側じゃないの、と思うのでしょう。
ところが、尊氏(以後、こう書きます)は天皇をやっつけろという幕府の指図にうんざりしてたんで、あっさり裏切ってしまうんです。
しかも、尊氏はあの八幡太郎義家の直系です。
源氏は天皇の子供に姓を賜って家臣にしたもの。
一方、平氏は天皇の孫に姓を賜って家臣にしたもの。
従って、源氏のほうが格上と見られていました。
第一代執権の北条時政(ほうじょう ときまさ)は桓武平氏の出です。
北条氏がこれだけ実権を握っても、将軍になれず執権なのは、北条氏が平家の血筋だからなんですね。
そしてもう一人。
新田義貞の登場です。
新田氏も源氏の流れを汲む名門です。
足利尊氏と同じ八幡太郎義家の家柄ですが、足利氏と違ってかなり冷遇されていました。
でも、ここ
ではもちろん後醍醐天皇に味方します。
こうして後醍醐天皇・足利尊氏、
楠木正成・新田義貞らの力が結集して鎌倉幕府は滅亡に追いやられました。
執権・北条高時は東照寺で自刃します。
1333年(元弘三年)5月22日のことでした。
※ ※ ※
鎌倉幕府を倒すまで後醍醐天皇と足利尊氏は仲良しでした。
2年後には敵対することになります。
足利尊氏の「北朝」、後醍醐天皇の「南朝」。
一つの国に二人の天皇という南北朝時代に突入す
るのです。
後醍醐天皇は吉野(奈良県南部)に逃れて南朝を開きました。
1336年から1392年、両朝がひとつになるまで南北朝が続くこ
とになります。
※ ※ ※
さて、新田義貞の息子・義興ですが。
この人は多摩川線で蒲田から2つ目「武蔵新田(むさし にった)駅」からほど近い「新田神社」に祀られています。
新田神社の境内
義貞の長男は早くに亡くなっています。
ほんとうなら次男の義興が家督を継ぐのがふつうですが、そうはなりませんでした。
なぜか。
それは義興が愛人の子だったからです。
けっきょく、三男の義宗が新田家を継ぎました。
でも、後醍醐天皇は義興に目をかけていたようです。
この子は「新田の家を興す子だよ」とおっしゃって、「義興」という名前を与えました。
義興の時代、鎌倉は完全に足利勢に占領されていました。
「鎌倉公方(かまくら
くぼう)」には足利基氏(あしかが もとうじ@足利尊氏の次男)がいました。
それを補佐する執権職には、畠山国清(はたけやま くにきよ)がいました。
鎌倉公方というのは、室町幕府(京都にありました)から関東を治めるために派遣された長官のことです。
国清は、義興のことを必死で探していました。
そんなとき、義興のもとへ「関東へ来て大将になってくれ」という手紙が届きます。
それを聞きつけた国清、そうだ。あいつを使おう。と思い立ちます。
「あいつ」とは誰か。
竹沢右京亮(たけざわ うきょうのすけ)です。
女塚神社の「女塚伝説へ」をクリックすると、主な登場人物のところに「竹沢右京亮」が出て来ます。
なぜか「左京亮」となっていますが。
この人物は少将局を探してきて、新田義興に引き合わせた人です。
もと義興の部下だったので信頼されると思ったのでしょう。
けれども義興は全く相手にしませんでした。
そこで、京都のある宮の御所から身分の高い女房をもらい受けました。
年は16ばかり、このうえもなくきれいで、心やさしい女性だったと言います。
これが少将局です。自分の養女にして義興に差し出しました。
ほんとうは義興をだますつもりで連れて来た少将局ですが、どうも本気で義興のことを好きになってしまったようです。
半年くらいたって、右京亮が義興を殺す計画を立てます。
満月の夜、「名月の宴」を開くので、ぜひご参加を、というのです。
そして刺客を配置して待っていました。
ところが、少将局はこの計画を知ってしまいます。
さっそく文を書いて、名月の宴には行かないように義興に知らせました。
けっきょく、義興は宴には行かず、計画は失敗に終わります。
けれども、右京亮は少将局から計画がもれたことを知ります。
「あの女を生かしちゃおけない」と門のところへ呼び出し、斬り殺してしまいました。
それを祀ったのが「女塚神社」だと言われています。
※ ※ ※
義興は右京亮をすっかり信頼しています。
足利から奪うために鎌倉へ行こうという右京亮の誘いに乗ってしまいます。
人数はできるだけ抑えて、と言われていたので、お供を十人くらい連れただけで、多摩川の「矢口の渡し(やぐち の わたし )」から船に乗り込みます。
船の底に穴が開いているとも知らずに。
渡しというのは、川のこちら側からあちら側に人や荷物を運ぶことです。
義興が船に乗り込んだとき、
船頭が二人、船底に空いた穴に詰めておいた栓を同時に抜き、水底をくぐって逃げました。
両岸から、矢筒(やづづ@弓矢を入れる筒)をたたいて、義興一行をあざけり笑う声。
義興は「日本一の無法者にだまされることこそ無念。悪鬼になってお前らを怨んでやる!」と。大いに怒り腰の刀を抜いて、左の脇から右のあばらぼねまで、かき回しかき回し、2回切りました。
また、執事
の井弾正(いいの
だんしょう)は腸を引き切って河中へ投げ入れ、自分の喉ぶえを二ヶ所さし切って自ら髪のつか(ひとつに結んである所)をつかみ首をうしろへ折りました。そ
の音は二町(約200m)ほども聞こえたと言います。
そのほか一緒にいた部下たちも壮絶な最期を遂げました。
「矢口渡」
というのは、今は蒲田のとなりの駅名になっています。
ここは新田義興がだまされて亡くなった場所だったんですね。
首謀者はもちろん右京亮です。
一緒に義興をだました江戸遠江守(えど とおとうみ の かみ)も義興の怨霊に脅かされて亡くなりました。
畠山国清も義興が6mもある鬼になって現れる夢を見たあと、流浪して死にました。
矢口の渡しには夜な夜なひかり物が出て道ゆく人を悩ましました。
そこで、義興の亡霊を一社の神に祭り、お墓をきづき、竹を植え、新田大明神と名付けました。
これが今の「新田神社」です。
とんべい(たしか屯兵衛)地蔵は関係があったような。
その時の船頭が屯兵衛だったかな。