世界がこんなに遠いハズはねェ!!(byゾロ)





おはようございます



ピロサカ・エリー・マサムネです





今でこそ、高円寺といえば、JR中央本線の高円寺駅を中心とし、仮住まいの若者から地元の方から老若男女混在とした活気ある街を指します。飲み屋さんやカフェや雑貨屋さん、美容院、古着屋さんや八百屋、精肉屋、大抵のものは高円寺だけで揃ってしまいます。駅を中心にいくつもの商店街(6つ?)が走っており、杉並区の中では人口密度No.1も確か高円寺だったりします。さて、その高円寺駅、一体どんな歴史、背景の元に誕生したのでありましょうか。その誕生秘話が意外におもしろいので、ご紹介します。




高円寺歴史シリーズどす




【1】駅誘致の戦い、始まる!!

明治39年(1906年)鉄道国有法・・・鉄道が国有化され、甲武鉄道は鉄道院(鉄道省)管理に(私鉄から国営に)



大正8年(1919年)荻窪駅までが電化



電化とは

電気が通るようになったということで、蒸気機関車ではなく電車になり、街には電灯が燈るようになります。ちなみに荻窪より先はまだ蒸気機関車です。この時代は道路に電柱を作っていく、というよりは先に鉄道を電化するために電気を鉄道沿いに引っ張ってきました。なので荻窪まで電化といっても、駅を離れると月明かりしかない暗い夜道のままな、そんな時代。


ひと昔前は、忌み嫌われていた鉄道ですが、火の粉を吐き出さない電車になったりした事や、その元々の便利さに気付き始めたこともあり、沿線沿いの人々は徐々に考えを改めるようになります。とはいえ、まだまだ青梅街道沿いが街の中心でありました。



当時の中央本線の駅設置状況
明治39年(1906年)

 ??境?荻窪?中野大久保新宿=信濃町=四谷=牛込=飯田町=水道橋=御茶之水

詳しくはこちらのリンクへ
・・・境(武蔵境)の次が荻窪で、その次が中野です。結構、かっとばしてますね。




大正年9年(1920年) 鉄道省は、中野~荻窪間に新駅設置を計画します。





ここで

駅誘致戦争が勃発します。戦うは、中央本線沿いの「阿佐ヶ谷」!「馬橋」!

「高円寺」はひっそりです。


馬橋はかろうじて、地名として残ってますね。ちょろちょろと公園や神社も残ってます。


馬橋とは

高円寺、阿佐ヶ谷の間にあるエリア。高円寺から軽く歩いていけます。なんとあの石川僚くんが通っている某高校があります。


♯ん、待てよ、ということは僚くん、高円寺に出没すんのかな。いやそもそも学校行ってなさそうだ。いつもどこかの大会に出てるもんな。杉並でもない僚くんが通うってことはゴルフプロに寛大だとか特殊な制度がある高校なんだろうか。。


【2】地の利の勝利か!


両地域とも、猛烈に鉄道省に駅誘致を働きかけます。



阿佐ヶ谷は荻窪駅設置の際も戦い敗れたこともあり果敢に誘致運動を行います。しかし馬橋も負けていません。元々、中野~荻窪の中央に位置していた馬橋は、自信がありました。その攻勢は止まることを知らず、激しいものでした。

鉄道省から、駅設置方針「真ん中に、駅間は均等な間隔にする」を聞き、勝利を疑わない馬橋は、駅ができた時を見据えて道を整備します。これは今の某高校前の馬橋中央通り。既成事実作戦というものでしょうか。


そして、ついには馬橋には内定が出ます!





馬橋、勝利です!

道を作ったくらいだから、相当な自信と気合がみてとれます

つづく