今昔物語シリーズ 「高円寺の歴史編」
さあ、いよいよ明治時代に突入!
明治維新を向かえ、文明開化の波がこの地方にも訪れます。
明治2年 田無?内藤新宿(新宿)間に「乗り合い馬車」が開通!
乗り合い馬車、、、馬版バスみたいなものですかね。
あの青梅街道を馬車が奔ってたんですねえー。
イメージはこんなんですかね。いや、違うな。。これはもっと都会で後の世の絵だ。。
当時の青梅街道の道幅は大体五間(9m)です。
馬車は2頭引きの10人乗り。
乗り方は(たぶん)「へい、TAXI!」式で呼び止め、乗車。
これまで基本「徒歩」 リッチな人は「駕籠(かご)」
そこで「乗り合い馬車」の登場
青梅街道がにわかに活気づきます。
しかしもちろんまだJR高円寺駅も環七もありません。。
(前回の絵に少し家を増やしてみました。。)
つづく。。。
今昔物語シリーズ 「高円寺の歴史編」
歴史零~高円寺の名前の由来 どんどん
歴史壱~農村地帯と青梅街道
さあ、いよいよ明治時代に突入!
明治維新を向かえ、文明開化の波がこの地方にも訪れます。
明治2年 田無?内藤新宿(新宿)間に「乗り合い馬車」が開通!
乗り合い馬車、、、馬版バスみたいなものですかね。
明治の乗り物。「人力車と馬車」
明治になって文明開化の波が押し寄せる。乗り物としてまず登場したのが、「人力車」と「馬車」。鉄道、車に比べてそのコストの安さの理由等により、これらは急速に全国に広がっていった。人力車のイメージはあっても、馬車のイメージはあまり無いのではないだろうか?しかし意外にも全国で馬車が奔りまくっている。
何故田無?
田無は中野の次の宿場町でした。栄えてました。内藤新宿→中野→田無。
乗り合い馬車もビジネスなんで、田無までの往復だと商売が成立すると読んだんでしょうね。
逆にいうと、結構な往来がその間にあったから、ということが伺えます。
あの青梅街道を馬車が奔ってたんですねえー。
イメージはこんなんですかね。いや、違うな。。これはもっと都会で後の世の絵だ。。
当時の青梅街道の道幅は大体五間(9m)です。
馬車は2頭引きの10人乗り。
乗り方は(たぶん)「へい、TAXI!」式で呼び止め、乗車。
これまで基本「徒歩」 リッチな人は「駕籠(かご)」
そこで「乗り合い馬車」の登場
青梅街道がにわかに活気づきます。
しかしもちろんまだJR高円寺駅も環七もありません。。
(前回の絵に少し家を増やしてみました。。)
つづく。。。
今昔物語シリーズ 「高円寺の歴史編」
歴史零~高円寺の名前の由来 どんどん
歴史壱~農村地帯と青梅街道