私と銭湯との出会いは、2006年5月- 
大型連休も終わり、夏の足音が聞こえてきた頃と記憶しています。
 
 
当時、私は翌月に行われる格闘技の試合へ出場するために、人生初の減量を行っていました。
練習、節制、また練習の日々。あらゆる手段を試すうち、近所にサウナがあるということを知り、
とある夜、世田谷の二子玉川商店街を訪ねました。
そこにあったのが、今は亡き新寿湯です。驚きました。ここは、21世紀の東京です。
地方で学生時代を過ごした20代にとって、東京とは渋谷であり新宿であり池袋であり、
最先端のファッションと文化を具現化する、世界有数のメガシティなのですから。
初めて新寿湯に出会ったときのノスタルジーを、私は忘れることが出来ません。
 
それから私は銭湯にのめり込み、全国700軒近くを行脚しました。
始めこそ驚きの連続、しかし次第に浮き上がってきたのは想像もしない逆境の現実でした。
年々減少する入浴客、進むばかりは老朽化。雫の音だけがこだまする中、
薄暗い店内には店主と私以外に人の姿もなく、いったい何度目にした光景でしょう。
しかし、先祖から代々受け継いできた家業。
 必要とする人がいる限り、自分が倒れるまで湯を沸かし続けよう-
そんな背中に、物見遊山でやってきた私はかける言葉なくうつむくばかりでした。
 
銭湯は、今後も減少を続けるでしょう。
あと10数年でニッポンの古きよき伝統文化が、またひとつ姿を消すでしょう。
仕方のないことだと思います。
風呂無しが当たり前で、嫌でも銭湯へ行かなければならなかった時代とは違うのです。
経営的にも体力的にも限界、後継ぎもなく将来の希望すらもなく、
涙を流しながら最後の暖簾を仕舞うその背中を、いったい誰が責められるというのでしょう。
 
しかしここに、一筋の光があることも事実です。
ごく一部ではありますが、老人ホームなどと提携し介護の一環としての入浴をさせたり、
レクリエーションを行うなど、地域の新しいコミュニティとして機能する銭湯が出てきました。
日本文化をその身で体験すべく、観光の外国人が訪れるようになったものもあると聞きます。
単に体を洗い入浴させる機能という域を脱し、新たな価値の創設と地域交流の役割を
担うことが出来たとすれば、銭湯が生き残る道は十分にあるでしょう。
世界に誇るニッポンの入浴文化、"SENTO"。
それがこの先も50年、100年と続くことを願って、私は最後の「更新」ボタンを押したいと思います。
 
 
今年も、新しい年の足音が聞こえてきましたね。いよいよ、お別れの時がきたようです。
2007年に始まり5度目となるこの大晦日、私はトーキョー銭湯の旅を結びます。
しかし私は今後も、きっと銭湯へ行くでしょう。
そしていつかどこか、今度は湯煙の中でお会いできることを楽しみにしています。
長い間ご愛玩賜り、まことにありがとうございました。

  

 
                             2011年12月31日
                              寒い、寒い夜に-