こんばんわ。
長らくお休みさせて頂いていたユウジです。
大丈夫、生きてます。

今日も、同潤会アパートのお話。

minowa2.jpg震災の復興の為に同潤会が組織され、東京の各所に次々とアパートを建てて行ったのは大正末期から昭和初期。

規模は様々で、最大規模のアパートは、白川町に建てられ663戸を数えた。

しかし戦後の開発とともに二つの同潤会アパートを残して東京からすっかり姿を消してしまった。そして残った一つも近々姿を消すと言う。


三ノ輪という街の名前は、僕の住む王子を通って、早稲田まで続く都電荒川線の始発駅として、小さい頃から、なじみ深いものだった。小さい頃、祖母に連れられて都電で早稲田まで出かけた記憶がある。

ただ、もう一つのターミナル、三ノ輪は結局幼い時分、大人に連れられて出かけるような事はなく年を重ねてしまい、なんとなく遠い街なのだとだけ認識していた気がする。

minowa3.jpg今日は、今に残されたもう一つの同潤会アパート、三ノ輪アパート。

近々解体される計画のようだ。

外壁のコンクリートは所々はげ落ち、鉄筋がむき出しになり、外装の朽ち様は甚だしく、解体も止むなしといった雰囲気。

現存する上野下アパートとは明らかに建物の傷み方が異なる。かつて軍艦島で目の当たりにしたアパート群のように、立ち長らえながら死んでいく姿を眺めるようで痛々しく感じる。


古い建築に興味を見いだすずっと前に、軍艦島という廃虚島に渡った事がある。その時と同様に、東京の建物を巡っていると稀に、とても無防備に廃虚を目の当たりにし、呆然と立ち尽くしたあの時と同じ感覚に襲われることがある。

いわばこの三ノ輪のアパートがそうだ。

僕には結局ただ呆然と向き合って、そして、気が済むまで写真を撮るより他ない。

minowa4.jpg三ノ輪アパートが竣工したのは1928年、昭和三年。世界恐慌の前年、満州事変が起こるよりも3年も前に建てられたことになる。

上野下アパートやまだ記憶に新しい在りし日の青山アパートと比べても、四階建ての二棟からなる三ノ輪アパートメントは同潤会の中では小規模なアパートであったことが分かる。