先日、用があって広島へ行った。用事を済ませて平和公園へ。原爆ドームを見上げた時、この建物が「広島県産業奨励館」と呼ばれていた頃の風景を思い浮かべた。緑のドームを被った白いモダンな建物は、鉄筋コンクリートの堅牢なものだったそうだ。私が訪れた時、錆びて鉄骨が剥き出しのドームには、羽を休める一羽の鷺が留まっていた。


これを設計したヤン・レツルは、チェコ人の建築家で、横浜にある建築事務所で働いていた。事務所の代表だったゲオルグ・デ・ラランデの家が信濃町にあった。ちょうど紅葉の季節、銀杏並木を見に行って、初めてこの家を見た。釘付けになり、一瞬で心を奪われた。信濃町なんて、埼玉県民だった私にはそうそう用のある所ではない。偶々見つけたこの建物を見るためだけに、用事もないのに時々出かけた。この家が取り壊されてからは、一度も行っていない。


デ・ラランデ邸を私は、「サンルームの家」と呼んでいた。家の真ん中からサンルームがせり出していたからだった。2階は壁が朱色で塗られていて、少し近寄りがたい雰囲気だったが、薄緑の屋根と白い壁のサンルームは、やさしく人を招くようだった。


この家を三島由紀夫が描写している。


 


鏡子の家は高台の崖に懸かっているので、門から入った正面の庭ごしの眺めはひろい。眼下には信濃町駅を出入りする国電の動きがみえ、かなたには高い明治記念館の森と、そのむこうの大宮御所の森とが、重複して空を区切っている。


                                            (中略)


この森には、時折、胡麻を撒いたように鴉の群がるのが見える。鏡子は子供の頃から、鴉の群を遠く眺めて育った。神宮外苑の鴉、大宮御所の鴉......鴉の塒(ねぐら)はこのあたりにたくさんある。鴉は又、客間から迫り出している露台にも現れた。(この露台の下がサンルームになっている)


 


『鏡子の家』は、戦後の東京を舞台にした作品で、美しく妖艶な寡婦鏡子と彼女の家を訪れる4人の青年たちを描いた青春小説だ。5人の登場人物それぞれが退廃と退屈を体現するようで、朝鮮戦争直後で不況の中にあった日本の世相をよく表していると思う。だけど、この家が大好きな私は「舞台に選んでほしくなかったな」と思わなくもない。だから、この家のことを知りたい人には、『鏡子の家』だけでなく、『建築探偵の冒険』(藤森照信著・筑摩書房)も合わせて読んでもらいたい。神戸異人館、風見鶏の館の設計者でもあるデ・ラランデ邸は、洋館ファンのみならず"建築探偵"も魅了したのだ。


 


※デ・ラランデ邸は、解体された部材が江戸東京たてもの園に保管されていましたが、復元設計・復元工事が決まり、2010年以降に同園で公開されることも決まりました。


 




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