みなさん、こんにちは。
蒲田のランチです。

わたしは15年くらい(1986-2001)地元・矢口を離れていたことがあります。
ひ とり暮らしをしてたんです。

その間にいちばん変わったことといえば、
日体荏原(にったい えばら)が共学になったことでした。

えっ、 うそ。
じょ、女子がいる!

そのときの驚きといったら。

だって、荏原高校って言ったら、男子校のイメージがあまりにも強かったもんですから。
荏原高校の出身だっていう男性に
「出身校が共学になったこと」について聞いてみたところ、
「そりゃ、 うらやましいですよ」と言ってました。

わたしが大学生だったころは、こんなこともあったっけ。
学校から帰って来る道で、
荏原の男子が自転車に乗ってやって来ました。
わたしとすれ違うとき、
「荏原高校2年×組、◯野○男。よろしくー!」
そう言うと、 さっそうと走り去って行きました。

けっこうモテそうなタイプでしたよ。
あのころはまぎれもない男子校だったのにね。
今じゃ、女の子と男の子が駅でいちゃついたりしています。

※ ※ ※

わたしが中学生だったころ(40年くらい前)は、まだ日体大の附属ではなく、ただの「荏原高校」でした。
「ばら高」と呼ばれていまし た。

わたしの中学は「安方中学(やすかた ちゅうがく)」と言います。
大田区立でした。

荏原と安方はそう・・・ 2キロも離れてないんじゃないかと思います。
で、安方で「どこの高校にも行けなかった生徒」の受け皿になっていました。
その後、レベル アップしたようですが。

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「荏原高校通り商店街」の看板。中央の緑のポールに赤い枠組がそれです。

手前に写っているのは「環状8号線(環8@かんぱち)」。

そのもっと手前に 「矢口渡」があります。

※ ※ ※

安方中学はどういうわけか「大田区の学習院」と呼ばれていました。
確かに蒲田にある「御園(みその)中学」なんかよりは、ガラはよかったですけど。
安方も環8の向こう側にあります。

ちなみに当時の制服は、女子はセーラー服、男子は学生服でした。
そのころは70年代のはじめ。
ちょうど「ツッパリ」という言葉がはやりはじめたころでした。

女子のなかにはスカートを長くして、顔には大きなマスク。
学生かばんはぺったんこ。
という「いかにも」な人たちもいました。
男子はボンタンにガクランですかね。

安方はリボンがダークブルーだったかなぁ。
御園はえんじ色だったと思います。

それで、まちを歩いているとき、御園の生徒に会っても目を合わせちゃダメよ。
あの人たち、カミソリを持っていて、顔をずたずたにされちゃうんだからね。
と、よく言われました。

なにしろ、先輩はなが~いスカートにマスクでしょ。
髪は染めてるし。
なんかやたら恐かったなー。

黄色い長靴をはいていただけで、裏庭に呼び出されてシメられたとか。
なまいきだというだけで、トイレに顔をつっこまれたとか。
上級生の男子に粉かけて、その男子と同じクラスの女子にいちゃもんつけられたとか。

おっかない話はいっぱい聞きまし た。

それで、年上の人って恐いんだと思っていたら、
高校はぜんぜん雰囲気が違っていました。
高校生になったのは73年の4月。

ちょうど大学生の学生運動が終わりかけ、若い人全体にがっかり感が強まっていたころだったからかもしれませんね。

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ちょっと早いですが、安方の桜です。